Divine Wisdom
*ファティマノマ*
食と瞑想

菜食は瞑想の副産物

「ベジタリアンです」と伝えて帰ってくる反応で多いのは、

どの種類のベジタリアンですか?
いつからですか?
なんでベジタリアンなんですか?
など。
変わったところだと、
サラダだけ食べてるんですか?
お米は食べないんですか?
なんていうのもあった。

思えば幼い頃から、野菜の方が好きだった。
小学校の頃、家族で初めて焼肉屋に行った時も
焼かれた肉を食べたいとは思わず、
それよりも初めて見たビビンパに乗っているナムルのおいしさに感動して、
ナムルばかり食べていた。

中学生の頃、母がつくるお弁当に不満が募り、お弁当要らない宣言をした。
私はそれほど白米を食べないのに、白米80%におかずは20%で
ほぼ毎回、卵焼きと炒め物1種類のみという、開ける度にがっかりして
何よりかわいくない(!)お弁当に納得いかなかった。
高校生になってからは自分で毎朝作って持っていくようになったのだが、
その時は健康への関心がかなり高くなっていたこともあり、
自分が食べたいものだけで作ると、自然とベジ弁当になっていた。

とにかく、小さなお弁当箱にいろいろカラフルに詰め込むのも楽しかった。
小さなキャンバスにお絵描きしているのに似ている。お弁当はアート。

その後も菜食中心ではありながらも、フツーに人付き合いしながら
暮らそうとすると完ベジにはなりづらい日本社会。
一緒に暮らしている人に合わせたり、友達に合わせたりをしていたけれど、
会社勤めを辞めて個人事業を立ち上げたタイミングで、
もう、好きなことだけをしようという想いの延長で、
食べたくないものを付き合いで食べるのはやめよう!と決心して、完全菜食に。
とは言え、なかなか周囲の理解を得るのは難しく、

手話の勉強をしていた時には、懇親会のお誘いに
「菜食対応ができるお店ならば参加させていただだきたいです」とお返事したところ、
幹事の方が「来たくないからわざと困らせるためにそんなこと言ってるんじゃないか」と
おっしゃっていたとう話が間接的に耳に入り唖然とした。
もちろんその会は欠席させていただいた。
(私は、手話の学びを通して多様性を受け入れるということを、なによりも学ばせてもらったと痛感していたのだが、必ずしもそうではない方もいるようだとその際に知った)

その後、瞑想の世界に導かれ、朝から夜中まで連日瞑想に取り組む日々を続けていたところ、徐々に菜食を好んで食べるところから、菜食でないとキツイという状態になった。
ある時、ベジモモ(ネパールのモモ)だと思って口にしたのが肉入りで、
その後、精神的にも肉体的にも重たくなって、数日間かなりのダメージを受けた。

「菜食は教義ではなく、瞑想の副産物である」というマスターの言葉を知ったのはその後だった。
なるほど。そういうことかと。体験が先にあって実感した。

そもそも、わたしが瞑想のようなものを始めたのは小学校の高学年。
中学生になってからはほぼ毎日瞑想に取り組んでいた。
何でそんなことをしていたかはまた別の機会にお話しするとして、
そう考えると、私が10代のころから自然とベジになっていたことが理解できる。

瞑想がすすむと粗いエネルギーが受け付けられなくなる。
それは場所や人、音楽、そのほかのものに対してもそうだが、食に対しては顕著だ。

you are what you eat

なにを取り入れるかで私がつくられる。
どんなエネルギーを受け取るかですべてが変わる。

このカテゴリーではそんな食と瞑想のお話を書いていこうと思います。
(カバー写真はオーガニックカフェ「晴れ屋」のベジランチ)